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私の生い立ち&私のトンネル人生

 野澤太三でございます。1986年の日韓トンネル研究会入会以来、日韓トンネル構想の実現のため半生を捧げてきました。
 この場をお借りして私の生い立ちとトンネル人生についてお話しします
 

1.生い立ち
 私は昭和8年に長野県の諏訪湖に程近く、上伊那郡辰野町にある農家の三男坊として生まれました。家の中には牛が一緒に家族と同じように住んでいました。その牛で田を耕し養蚕・養鶏の手伝いをしながら育ちました。
 中学2年のとき、好きで入ったバスケットボール部の激しい練習で左足を痛めました。始めは関節炎かと思いましたが、骨膜炎という重い病だということを土屋先生という町のお医者様が見破り緊急で手術し、進駐軍放出の貴重なペニシリンを処方して下さり命拾いしました。治して下さった土屋先生、その頃は非常に高価だったペニシリンの処方を同意した父、そしてペニシリンという特効薬を発見した英国の医師フレミング先生は、いうなれば私の命の恩人です。
 半年ほどで中学校に復学しましたが、足を痛めたことで元々好きだった運動はできず、その分、読書と勉強に力を入れることになりました。その後、伊那北高校に入学し、出会った地学の先生に大いに感化されました。そして理科の勉強を選ぶことになりました。
 
 
2.大学生活
 東京大学では物理や地学分野の理科一類を専攻しました。駒場寮の生活では法文系の皆様との付き合いのなかで「世の中にはいろいろな考え方がある」ということを知りました。社会的な目が開けたことで、理学部より工学部の方が向いているのではないかという気になりました。また駒場寮の歴史研究会に入り、どちらかというと左寄りの仲間と相当突っ込んだ議論をしました。それは後日、国鉄に入ってから労働組合と論戦でも決して負けないだけの勉強となりました。
 3年になるとダムの勉強のため、道路や鉄道、ダムの工事現場に行きました。そこでは水が溜まったダムのたわみ計算やアーチかストレートのどちらが良いかなどを学生にやらせてくれました。これが土木工学の面白い所です。その後、卒論のため鉄道技術研究所に入り、橋梁の溶接の研究を通して鉄道の仕事に面白さを知り、それが日本国有鉄道へ就職するきっかけとなりました。  

  

一ノ倉沢の紅葉3.国鉄時代
 国鉄に入社して最初の一年間は中央鉄道学園で座学だけではなく、専門外の切符切りから電気系統の監理、電車の運転まで全て経験しました。続く専門職教育では土地勘がないところが良いと考えて北海道にあるトンネルの掘削現場に赴任しました。それが私のトンネル人生の第一歩となりました。
 赴任先の辺冨内線日振トンネルは延長約1kmしかないのに16年かけて掘ったのが僅か三分の二という難工事の現場でした。着任の挨拶に行くと現場の責任者が「よく来た」と言って手に持っていた厚さ10㎝にもなる資料を示し「これを全部貸すから現場をよく調べ日振トンネルに目途を付けて欲しい」と入社2年目の新人に信頼と使命を与えて下さいました。
 現場を苦しめていたのは膨張性の地山でした。その原因を突きとめるため現場を調べ、同じような現象が起っている夕張炭鉱での対策方法などを視察しました。そして地山膨張の原因が、これまで言われてきた「吸水膨張」ではなく「造山運動などの歪の蓄積が掘削で解放されたもの」という視点でレポートを書き、対策として「V形の可縮支保工」の使用を提案したところ採用され、2年後には日振トンネルは開通しました。入社2年目の新人を信頼し仕事を与えて下さった先輩の懐の深さがとても良かったと思っています。1), 2), 3)
 次に着任した上越線の新清水トンネルは未着手でスタッフもおらず人集めから全てやりました。茂倉山の頂き近くにテントを張り、一か月かけて測量し延長13.5kmのルートを決めました。トンネルの掘削は順調に進み4年余りで完成しました。しかしその間、14人の作業員が殉職しました。発破工法が主体で、そういった犠牲者が出てしまいました。大いに反省し亡くなられた方々、ご家族にお詫び申し上げたいと思っております。
 東京都内のトンネル建設にも関わりました。東京駅から品川間にトンネルを掘り、総武線と東海道線を直結する工事で、私はその計画、設計、施工の初めの部分を担当しました。大都市の地下のため、建物や道路、河川などの構造物が密集するなかでの工事となりました。5工区に分け、地質や地下水位に合った工法を採用しトンネルは完成しました。しかし後に東京都低地部の揚水規制で地下水位が上がり、トンネル内への漏水が発生し、対策のために二次巻をする事態も起こりました。都市の地下はダイナミックに変化するので、構造物の基礎や地下水位や土地利用の変化などを十分に事前調査することが大切ではないかと思います。
 国鉄時代のトンネル建設の経験から出てきた想いを五七五調の「よく調べ よく考えて 安全に」に込めます。これは日韓トンネルにも繋がると思います。また、私が国鉄時代の最後に拝命した本社施設局長の経験から、日韓トンネルの計画検討は完成後のトンネルの活用法や保守管理まで見据えて進めることが大切と思っています。

  

盧泰愚大統領の国会演説4.政界にて
 モータリゼーションの進展などで赤字経営が続く国鉄を分割民営化するため、昭和61年(1986年)に参議院に入りました。
 日本国有鉄道法は全国一本の法律のため、分割民営化には八つの法案を国会で通すことが必要でした。法案の仕組みが複雑になるため、鉄道のことを熟知する者でないと務まらないということもあり国鉄内で推されたわけです。削減する職員7万人の雇用と年金の確保など難しい課題もありましたが、関係する皆様の智慧をお借りして1987年に分割し新会社が発足しました。
 参議院議員在職中は整備新幹線の建設促進や弾劾裁判所長、法務大臣といった様々な仕事をしました。
 トンネルに関係するものとして大深度地下法の制定は政界での特に思い出深い仕事となりました。旧国鉄時代のトンネル経験から、大都市の地下深くの利用権を地主が持っていることがおかしいと感じていました。そこで世界各国の状況を調べ、大深度地下利用を検討する「臨時大深度利用調査会設置法」を提案しました。法案には政治的立場の異なる方々も含め多くの賛同を戴きました。衆参両院共に全員一致で通過し「大深度地下の公共的利用に関する特別措置法」が成立しました。これにて大都市の地下40m以深は公共のために利用できるようになりました。2007年の神戸市の送水管施設事業や現在進行中の東京外かく環状道路の関越道から東名高速道路区間のトンネル工事、また建設が本格化しているリニア中央新幹線のトンネル建設もこの法律で認可されました。

  

釜山市長との話し合い5.日韓トンネルの実現
 1986年の参議院当選直後、日韓議員連盟加入と同時に日韓トンネル研究会に入会しました。当時は北海道大学名誉教授の佐々保雄先生が会長を務められ、国鉄時代にお世話になった高橋彦治さんや持田豊さんたちと再会し日韓トンネルを進める同志となりました。
 その後、参議院議員を3期18年務めて法務大臣を退任し、2006年に当時の濱建介副会長のご推薦で日韓トンネル研究会の4代目会長をお引き受けしました。日韓トンネル研究会へ入会後、参与や顧問として20年間お手伝いしてきましたが、トンネルのルートの選定や設計・施工に関する積極的な発言は会長をお引き受けした後からです。それ以降のことは本WEBサイト(ホームページ)をご覧頂ければと思います。
 日韓トンネルは新しい日韓関係の未来と東アジアの連携を強める象徴的なプロジェクトです。日本と韓国を隔てる玄海灘は、ときには幸の海、ときには悲しみの海でした。皆で玄海灘を越える新しいトンネルを掘りましょう。実現には両国の国民の皆様の理解と協力が欠かせません。協力とは、日本と韓国が仲良くなるために自分ができることを考え、それを実行することです。それが日韓トンネルを支える「心のトンネルを掘る」ことになります。みんなの理解と協力が集まれば日韓トンネルは必ず出来上がります。その気持ちを込め、和歌を一首詠みました。

   玄海の 灘越えの 通い合う で掘ろう このトンネルを


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