日本と韓国を結ぶ構想は民間の声として1980年(S55)に大手建設会社である株式会社大林組が発表した。東京発ロンドン行きのユーラシア・ドライブウェイ構想である。これは地上にある町や村を夜空の星々に見立て、それらを道で結び自由に往来するというロマンの提示でもあった。特に日本-韓国間の「海の道」を最難関とみて力点をおき技術的な検討を加えた。壱岐・対馬間は海底トンネルを、対馬・釜山間は鋼鉄枠とコンクリート枠からなるチューブを連ね、海中につるす海中トンネルとした。
一方、韓国では1981年(S56)にソウルで開かれた「科学の統一に関する国際会議」の開会式で会議を主催した国際文化財団創設者文鮮明総裁が国際ハイウェイ構想と日韓トンネル建設を提唱した。日本から日韓トンネルで朝鮮半島に渡り、ソウル、ピョンヤンを通り、これを国際ハイウェイとして世界各地に拡張し、高速道路・鉄道・情報通信網の整備による、物心の自由化と一体化を図るという計画であった。この提唱は東西問題、南北問題解決策の具体的提案という性格があった。
本提唱を契機に民間の調査研究団体として日本では国際ハイウェイ事業団や日韓トンネル研究会が、韓国では国際ハイウェイ研究会や韓日トンネル技術研究会などが発足し、日韓トンネルに関する日韓間の情報交換や交流が始まった。
1990年代以降には日本国内でも様々な団体等が日韓トンネルの実現について言及した。1994年には財団法人エンジニアリング振興協会が日韓ントンネルの波及効果の分析結果を発表、1996年には日本のロケット開発の父と呼ばれる糸川英夫が著書「21世紀への遺言」で日韓トンネル建設を提唱、同年、ESCAP閣僚会議がアジア高速道と日韓トンネルを想定、2002年に大手建設会社「熊谷組」が日韓トンネルにも適用可能な新工法を発表、2005年には政府系シンクタンクNIRA(総合研究開発機構)が政策研究の中で日韓トンネル計画を発表した。
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