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朝鮮海峡トンネルのページ |
朝鮮海峡トンネルは戦前の一時期(1910年~1945年)にあった九州または下関から壱岐、対馬などを経由して朝鮮半島の釜山あるいは馬山に至る海底トンネル構想である。当時、朝鮮半島は日本の統治下にあり「朝鮮海峡トンネル」は現在構想されている「日韓トンネル」とは目的や性質において大きく異なるものであった。トンネルの名称は、朝鮮海峡隧道、朝鮮海峡海底隧道、対馬海峡水底隧道などの呼称があるが、本ページでは当時の名称を尊重しかつ現代においても理解しやすい「朝鮮海峡トンネル」を用いた。 以下に戦前の日本が構想した東アジアの交通体系を研究する資料として朝鮮海峡トンネルや大陸の縦貫・横断鉄道に関する資料を掲載した。 |
朝鮮海峡トンネルの概要 |
朝鮮海峡トンネルについて、1913(大正2)年の4月に、田辺朔郎(工学博士)が対馬海峡に海底トンネルを掘るための調査を行なったとする資料がある。田辺朔郎(1861-1944)は関門海峡トンネルを設計し琵琶湖疎水工事で名高い。現時点で確認できる朝鮮海峡トンネル調査に関する最も古い記録であるが、本調査の一次資料はなく1913年の田辺朔郎の日記には朝鮮海峡トンネルに関する記述がみられない。そのため現時点では参考記録にとどめる。なお田辺朔郎は第二次世界大戦開戦を前後して高まった朝鮮海峡トンネル建設論には否定的な立場をとった(後述)。 1917(大正6)年に小磯国昭(1880~1950)が朝鮮海トンネルの建設を提案した。第一次世界大戦とともに各国は総力戦という新しい戦争形態に直面した。日本の陸軍でも対外経済策を検討するなか、当時、陸軍参謀本部支那課兵要地誌班長の職にあった小磯国昭は著書「帝国国防資源」で平時戦時における自由貿易と自給自足圏の両立を説き、朝鮮海峡トンネルの建設を帝国国防経済政策の大綱6項目のひとつとして掲げた。戦時における帝国の原料需要を満たすために中国の資源が必要という認識から、大陸との連絡ルートの確保の一環として朝鮮海峡トンネルの建設の意義を強調し、完成までの期間を21年、費用を8億円と想定している。 1935年に内務省土木局道路課の岩澤技師は道路トンネルによる朝鮮海峡横断を提案した。岩澤技師は関門トンネル工事の目途がつけば次は朝鮮海峡トンネル建設だとして、工期25年、工費15億円と試算した。 1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、満州を含む中国大陸への物資の輸送が急増した。陸軍は軍備の基礎となる重要産業拡充計画の策定にとりかかった。同年5月末には「重要産業五ヵ年計画要綱」を陸軍省案として内閣に提議し、その中で鉄道に関する重要な方針として「朝鮮海峡横断鉄道敷設に関し速やかに具体的な調査研究を促進する」と明記している。また同年設立した近衛内閣の中島知久鉄道省大臣が局長級会議で、日本の鉄道を中国の揚子江沿岸を沿岸に整備しなければならないことを主張したのを契機に建設局長所属の何人かの技師により研究が始められた。 1938年(S13)には鉄道省による朝鮮海峡トンネルの予備的な実地調査が始まった。但し、朝鮮海峡トンネル建設は当時の大陸の鉄道を管轄していた朝鮮鉄道や満州鉄道、さらには中国や関東軍にも関わることであり、問題の複雑化を恐れた鉄道省は東京-下関間の新幹線計画を最優先し、朝鮮海峡トンネルを大陸と連結する新幹線計画の完璧を期するためのものと位置付けた。1939年には東京~下関間を9時間で結ぶ新幹線鉄道案いわゆる弾丸列車計画が着工した。 日中戦争で緒戦を勝利し、大陸への関心が一気に高まるなか、1938年(昭和13)年に鉄道省の湯本昇鉄道監察官が「中央アジア横断鉄道」の建設を提唱した。これは当時、鉄道がなかった中国の包頭とイラクのバクダット間延べ7500kmに鉄道を敷き、東洋と西洋を陸路で連結するという壮大な構想であった。湯元昇は昭和初期、ベルリン滞在中に回教に強い関心をもち、かつて東西の文明交流の要として欧州人をはるかにしのいだ回教圏の再興には中央アジア横断鉄道建設が必須との考えをもち続けていた。構想を発表した1938(昭和13)年当時にはシベリア鉄道が常時利用に不適当となっており、頻繁化する日本ドイツとの交通路確保のため中央アジア横断鉄道の建設は有用との見方もあり、また共産勢力の南下を阻止する防共鉄道としての役目も期待できるとされた。この計画は帝国鉄道協会の賛同を得て1942(昭和17)年には協会内に中央亜細亜横断鉄道調査部が設置された。 中央亜細亜横断鉄道調査部で路線の平面図や縦断面図を作成した鉄道省の桑原弥壽雄技師は、昭和10年代前半から東京発ロンドン行きアジア横断鉄道および朝鮮海峡トンネルを含む環日本海鉄道を構想していた。桑原弥壽雄は戦後、青函トンネル建設に直接携わることになった。 湯本昇の中央アジア横断鉄道建設の提唱と時期を同じくして「大東亜共栄圏構想」に基づく大陸縦貫鉄道構想が生まれた。この構想は東京とジャワ島を結ぶ鉄道建設であり、途中の3海峡(朝鮮海峡、マラッカ海峡、スンダ海峡)は海底トンネルで結ばれるとしている。前述の中央亜アジア断鉄道が東西の文明交流が主眼となっているのに対し、大陸縦貫鉄道は物資や人員の輸送といった目的をもち、完結した軍事・経済圏確立という現実的な使命を負うことになった。当時計画されていた東京-下関間の新幹線や朝鮮海峡トンネルも大陸縦貫鉄道の一環として位置づけられた。 朝鮮海峡トンネル建設については、鉄道省により調査が始まったものの賛否両論が数多くあった。1939(昭和14)年には、トンネル工事の第一人者である田辺朔郎がトンネルの規模や地質条件の悪さ、建設費用などから朝鮮海峡トンネルは非現実的と判断し下関-釜山間とは別ルートの航路設置を提案した。また鉄道省による地質調査の結果、対馬と釜山のあいだの朝鮮海峡は水中トンネルとの結果が出たが、陸軍が軍事上の理由からそれに反対した。また最低20年の工期は当時危機にあった戦力増強に間に合わないし、戦後の国力増強推進にも当分の間は期待できないとの判断もあり朝鮮海峡トンネル計画は挫折した。大陸縦貫鉄道構想そのものも1945(昭和20)年の終戦による「大東亜共栄圏構想」の崩壊と共に雲散し、朝鮮海峡トンネルに関わる調査成果の資料は焼失した。 |
朝鮮海峡トンネルに関する資料リスト |
資料名 | 発行者 | 発行年 | 種類 | 主 な 内 容 | 頁数 |
帝国国防資源 | 陸軍参謀本部 | 1917/8/1 | 資料 | 小磯国昭:対馬海峡の隧道開設の必要性 | 14 |
新愛知(中日新聞) | 中日新聞 | 1935/7/7 | 新聞 | 内務省:朝鮮と九州を繋ぐ世界一の大トンネル(工費15億円25年計画、夢の立案) | 1 |
九州日報 | 九州日報 | 1935/7/7 | 新聞 | 内務省:朝鮮九州を結ぶ世界一の海底トンネル立案 | 3 |
福岡日日新聞 | 福岡日日新聞 | 1938/12/12 | 新聞 | 朝鮮海峡トンネルいよいよ実現の曙光(調査費80万円、総工費10億円、唐津・釜山間を僅かに2時間) | 1 |
世界平和への大道と中央亜細亜横断鉄道 | 湯本昇 | 1939/9/6 | 資料 | 湯本昇(鉄道監察官)によるA・Kよりの放送原稿 | 13 |
中央アジア横断鉄道建設論(序と目次のみ掲載) | 東亜交通社 | 1939/10/5 | 単行本 | 序、目次および本書に対する各国の反応のみ抜粋して掲載 | 314 |
汎交通 | 帝国鉄道協会 | 1940年頃 | 雑誌 | 田辺朔郎:国有鉄道幹線改良について | 7 |
中央亜細亜横断鉄道 | 帝国鉄道協会 | 1942/2/1 | 単行本 | 帝国鉄道協会 | 19 |
科学主義工業 | 科学主義工業社 | 1942/3/1 | 雑誌 | 湯本昇:大東亜縦貫鉄道建設論 | 7 |
第一回土木講演会記録 | 不明 | 1942/3/1 | 資料 | 稲葉道彦:東京下関間新幹線について | 3 |
朝鮮海峡横断鉄道地質調査 | 日本物理探鉱株式会社 | 1942/3/1 | 資料 | 宮崎政三:平成8年7月に鉄道省による朝鮮海峡トンネルの調査経過をとりまとめた | 12 |
東京日日新聞 | 東京日日新聞 | 1942/3/10 | 新聞 | 共栄圏鉄道・雄大な構想、東京→昭南港まで座ったままで | 1 |
青函トンネル物語 | 吉井書店 | 1986年 | 単行本 | 青函トンネル物語編集委員会:朝鮮海峡トンネルと桑原弥寿雄 | 8 |
十五年戦争極秘資料集⑦ | 不二出版 | 1988/3/10 | 単行本 | 原田勝正:大東亜縦貫鉄道関連書類(原田勝正編) | 18 |
弾丸列車 | 実業之日本社 | 1994/11/1 | 単行本 | 前間孝則:幻の東京発北京行き超特急(前間孝則) | 21 |
鉄路のデザイン | 批評社 | 1997/11/10 | 単行本 | 升田嘉夫:ゲージのなかの鉄道史(升田嘉夫) | 6 |
亜細亜新幹線 | 講談社文庫 | 1998/5/1 | 単行本 | 前間孝則:幻の東京発北京行き超特急 | 28 |
朝鮮海峡トンネル計画とその経緯 (外部リンク) | 公益財団法人土木学会 | 2014/4/7 | 論文 | 小野田滋:朝鮮海峡トンネル計画とその経緯、土木史研究講演集,Vol.34,PP.199-207,2014.7. | 9 |
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